人を育てるまち船場

さまざまな分野で活躍する人材を輩出しました

「適塾」は、緒方洪庵が江戸末期の天保9(1837)年に創設した蘭学塾で、福沢諭吉ら明治時代に活躍する名士を育て、いまも中央区北浜に築後200年以上の姿をとどめています(重要文化財)。

大坂の豪商たち(五同志)が設立した「懐徳堂」、民衆に漢字を教えた「泊園書院」など、これらは世の中をよくしたいという強い意志を持った民間人らによってできた教育機関で、その意思は、のちに設立された大学などにも受け継がれています。この他にも船場周辺には多くの私塾・学問所、教育施設がつくられ、商業や医療、文化など様々な分野で活躍する人材を日本や世界に送り出してきました。

緒方洪庵(1810~1863)は大坂で最初の種痘を実施するなど医学者としても活躍しました。
大正5(1916)年完成の校舎。前身となる相愛女学校は北御堂(本願寺津村別院)の境内に設置されました。

地元の豪商升屋が自らの居宅を寄贈して明治5(1872)年に開校したものです。児童減少に伴い、平成元(1989)年に閉校しました。
塩野義製薬本社の敷地にある碑です。道修町の薬業者らが中心に薬学の教育機関を設立し、この大阪薬科大学や大阪大学薬学部の礎を築きました。
嘉永2(1849)年、緒方洪庵が多くの医師とともに設立、天然痘(疱瘡)予防の普及活動の拠点となったのが除痘館です。
明治13(1880)年、町民の声で設立が決定。現存する府下最古の幼稚園。明治34(1901)年に作られた日本最古の園舎は、国の重要文化財。

コラム

適塾生の衣食住ー勉強そして勉強!

適塾の入塾者は、全国から集まってきました。福沢諭吉は、著書『福翁自伝』の中で、天満橋で安い魚を買い求め、机をまな板にしてさばいた、とあります。朝から晩まで机に向かい、眠るときでさえ机の上だったといいます。

時代が大きく動いた幕末、「開国か、攘夷か」騒然とするさなか、純粋に勉強一筋という姿勢を貫いたのは、洪庵の教育方針でした。

〇塾生大部屋
適塾生が勉学や寝泊りに使った32畳の大部屋。生活スペースは、1人1畳。適塾では医学だけでなく、自然科学も学ばれ、総合教育機関として大学の元祖といわれています。

情報提供:大阪市中央区役所